今回はいつもの心理学をテーマにした内容とは異なります。
当時何があったのか突っ込んで述べている箇所もございます。
目にしたくないということでしたら、どうぞ今回はお避け下さい。
平常内容は1,2週間後に再開する予定です。
1995年1月17日
その時、実家から離れて生活していたが、左に右にうねる地震の前に頭部を布団で守り地震がおさまるのを待つしかなかった。
窓を開けて見ると、二階の自室が一階になっており、同じ階の住人から「ガスの匂いがする」との声が聞こえたので、自室を開放して外に出てもらった。
外に出ると阪神電車の高架や車庫が強い力で引き裂かれたかのように倒壊。
まだ夜明け前なのに西の空は赤く輝き、非日常の感覚しかなかった。
家族や友人の安否が気になり実家まで自転車で。
市場で店を営む祖父宅を訪れると、倒壊した店の前で「店が、店が…」と呟きながら震える祖父を目の当たりに。
道路では瓦礫から引き出されたが息の絶えたご家族を「寒かったやろう…」と布団をかけつつ、その姿を見ながら声もなくただ涙を流す大人たちや、まだ唇をこれでもかとばかりにギュッと噛みしめる子どもをとても直視はできかったが、そんな光景がいくつもあったと記憶している。
まだまだ身近でない心理学・心のケア
これをきっかけに「心のケア」が注目され始めたが、災害関連死も認定数だけでも千人近く。
認定されていなくても実質はこの数倍から10倍に及ぶとも思われる。
地震の予知は出来なくても、災害後どう動きイメージするかは前もって検討できるはず。
特に心理的なケアはアメリカに比べてもまだまだ世間にはまだまだ馴染んではいない。
令和六年度能登半島地震では未だ厳しい生活を送る人もいるし、南海トラフも懸念されている。
「こういった話は突っ込んで語るべきではなく胸の奥にとどめるべきである」と声高に主張する人がいることも承知している。
しかし、それぞれが周囲をそして何よりも自分を守るために何が出来るか…、課題を受け止める限り、いくら年月が経とうが終わりはないのだと再認識する。
令和7年1月17日